添い寝

三木露風は、近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。よく知られているのが童謡の「赤とんぼ」であり、それついて彼はこう述べている。「私の作った童謡「赤とんぼ」はなつかしい心持から書いた。それは童話の題材として適当であると思ったので赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思ひ出を内容にしたのである。・・・「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。」 

 

山田耕筰の作曲による日本の代表的な童謡の一つである。夕暮れ時に赤とんぼを見て、昔を懐かしく思い出すという、郷愁にあふれた歌詞である。 

 

 夕焼小焼のあかとんぼ、負われて見たのはいつの日か。

 

 山の畑の桑の実を、小籠(こかご)につんだは、まぼろしか。

 

 十五で姐(ねえ)やは嫁にゆき、お里のたよりもたえはてた。

 

 夕やけ小やけの赤とんぼ とまっているよ竿の先

 

三木露風の父は家庭を顧みず、放蕩三昧を繰り返していた。見かねた祖父は母を二つ年下の弟と一緒に鳥取の実家に帰らせた。母は播磨のその家を去りたくなかったが、その命に従わざるを得なかった。 江戸時代、三従の教えというのがあり、それは結婚前は父に、結婚後は夫に、夫が亡くなった後は子に従えというもの。露風が生まれたのは明治22年であり、7歳の頃もなお、この女性軽視の悪風が色濃く残っていた。ちなみに彼女の父は鳥取藩の元家老である。露風が幼稚園から帰ると母と弟の姿がなかった。寂寞たる思いがつのったが、母もまた、露風との離別は心裂かれる気持ちであった。播磨から因幡へは峻険な峠があり、乳飲み子の弟を連れた母は、馬と人力車を使ってこの峠を越えた。峠の上に泣き地蔵があり、母はここで播磨の空を振り返り、あとに残した露風のことをしのんで涙したという。露風はこの母との別れについてこう詠んでいる。

 

 「われ七つ 因幡に去ぬのおん母を 又帰り来る母と思いし」

 

 「吾や七つ 母と添寝の夢や夢 十とせは情知らずに過ぎぬ」

 

露風は母が帰ってくると思い、心待ちにしていたがその日は来なかった。母と添い寝している夢を幾度も見たが、やわ肌に抱かれて眠る日は来なかった。母が去った後、女姉妹もいない露風をかわいがってくれたのは子守りに来ていた姐やであった。因幡に去った母にかわって幼い露風が彼女になついたとしても自然である。

秋の夕暮れ、姐やに背負われていた露風の周りには、夕焼小焼の中に赤とんぼが飛んでいた。幼い頃の何気ない光景だが、姐やの感触とともに露風の心に残った。それは姐やと母が二重写しになっていたに違いない。歌に出てくる「山の畑の桑の実を、小籠(こかご)につんだ」のは母の時もあっただろう。しかしその姐やもやがてお嫁に行き、手紙も送られてこなくなった。

露風の母恋しさは募るばかりであった。母はその後再婚し、市川房江などとともに女性の参政権を求め、婦人解放運動家として活動し、92歳で亡くなった。病が深まった頃、彼はつきっきりで看病し最期を看取った。母が息を引き取った時、「今夜、お母さんの傍に寝させて欲しい」と母の婚家に懇願した。72歳の露風は永遠の眠りについた92歳の母の傍らに、甘えるように添い寝した。お通夜だからということのほか、生前中からずっと願っていたことであった。そして母もまたそれを望んでいたことを知っていたからである。

彼は上京した頃、母に手紙を書いた。母はその返信に「汝(なんじ)の頬(ほお)を当てよ。妾(わらわ)はここにキスをせり」としたためていた。母はくちづけをした便箋に、露風が頬を当てることを望んだ。離別した露風との身体的な接触は、唯一この間接キスだったのである。彼はこの手紙を読んで人目もはばからず泣いた。彼は母の肉体が存在する最後の夜に、自らと母の望みをかなえたのである。

                                               榊晶一郎