松平容保(かたもり)の法要

幕末の動乱期、会津藩は京都守護職の任にあり、新撰組を配下として勤王派を激しく弾圧したが、このときの藩主は松平容保だった。鳥羽伏見の戦いで倒幕派が勝利すると、会津藩は朝敵の汚名を着せられ、その報復を受けることとなった。会津では侵攻する新政府軍に藩を挙げて抵抗したが、出城は次々と落城していった。総力戦となった会津藩は、藩士たちを年齢別に、玄武(50歳以上)・青龍(36~49歳)・朱雀(18~35歳)白虎(16・17歳)と組織し、300名余りの兵員数で最後の抗戦をした。このうち白虎隊も出陣し、飯盛山でほとんどが自刃して果てた。会津藩は若松城に篭城して抵抗したが最後は降伏し、藩主の松平容保は鳥取藩に預けられた後に、東京に移されて蟄居することになった。

 明治の中頃、例年通りに戊辰戦争会津藩殉難者のための鎮魂法要が会津若松の阿弥陀寺で催された。この法要に松平容保が出席したことがあった。会津藩の元重臣たちをはじめ、主催者側は驚きつつも大いに感激し、多くの旧藩士たちも儀容を正して出席した。ところでこの法要で出される食膳は、赤飯・鰊(にしん)の煮付・コンニャク・香の物だけというのが通例であった。しかしこれでは、旧主を迎えるにあたっていかにも粗末過ぎるので、主催者側は元家老らと相談し、容保の膳だけ藩の料理人だった人物に作らせることにした。そして、その当日。午前中の法要行事も滞りなく終了し、昼餐となった。多くの参列者は旧主と同座できる感激にひたりつつ、料理が配膳されている席に座り、最後に容保が上座に着いた。主催者の挨拶があってささやかな宴が始まり、それぞれはひそやかに談笑しつつ、杯を酌み交わしていたが、上座の容保を盗み見るようにして見ていた彼らは、先刻から容保がまったく箸を付けないことに気が付いた。主催者側は青くなり、料理が粗末過ぎて気分を害したのだろうと思い、慌てて容保の前に這い出た。「おそれながら、料理が粗末の段は甚だ申し訳なきことなれども、せめて箸ばかりはお取上げ下さりますようお願い申し上げまする」口に合わないまでも、箸だけはつけてもらわないと、居並ぶ旧藩士たちは、食事を進めるわけにはいかない。しかし容保は、進み出た元家老の顔をみすえてこう言った。「この膳は皆と同じものであるのか?」元家老は狼狽しつつ「違いまする」と答えた。「ならば、これを皆と同じものに取替えよ。余はここに美味なる料理を求めてきたのではない。ただ皆と共に旧を語り、古を偲びて亡き藩士たちの霊を弔わんとするのみである」これを聞いた元家老は、畳の上にひれ伏したまま身動きできず、みるみる畳の上に涙をこぼした。容保のこの声を聞いた一座の者もまた、涙を流した。

 容保は後に尾張徳川家の家督を継がないかという話を持ちかけられたが、そのときの容保の言葉が残っている。「元治以来、予のために一命を歿せしものは三千人に上るであろう。老いた者は子を失い、幼き者は父兄を亡くし、あるいは寡婦となり、あるいは不具者となった。斗南(会津藩の転封先、東北地方)の酷寒の生活で、どれだけの者が病苦に斃れたであろうか。これらのことは、すべて予の不徳からなったものである。だというのに、いま己のみが栄華をなさんと会津家を振り捨てて他家を相続するなど、まったく思いもよらぬことだ」

 当時26歳だった容保は重臣らの反対意見を押さえ、将軍家を護るため、あえて火中の栗たる京都守護職を拝命し、藩兵1000名を率いて京都黒谷に駐屯した。ここから会津藩の悲劇へとつながっていくが、「もし火中の栗を拾わなければ・・・」の思いは戦没者に想いをはせるとき、とりわけ想起されただろう。容保は、やむを得なか

ったとはいえ、当時の判断について悔恨と謝罪の情があったに違いなく、それゆえ自らを特別扱いするような料理には箸をつけられなかった。そして容保の言葉を聞いた旧藩士たちは、容保がいまだにそういう想いを抱いてくれているということに感極まったに違いなく、浄土から来臨した会津藩士の霊もまた、和んだに違いない。

                                                             榊 晶一郎